中3国語では1か月近い期間を使い、「コロナ禍と社会について考える」という単元を行いました。
導入として、教科書教材「新聞の社説を比較して読もう」を扱って社説を対象にした比べ読みを学習した後に、実際に現在のコロナ禍を扱った社説の読み比べを行うことを通して現状認識を深めました。
次に、アルベール・カミュ『ペスト』の一部を3回かけて読解することを通して現状を相対化させました。扱ったテキストは合計でおおよそ100ページ以上かつ、『ペスト』自体が難解な内容であったため生徒は相当大変だったと思います。生徒個々人の頑張りは勿論、月曜のオンライン学習で課題文を読んだ後Googleフォームで振り返り・質問への回答、木曜のインタラクティブ授業で読解内容の確認と交流という形で進められたからこそ出来た学習だと思います。交流ではJAMBOARDを活用して他の生徒の意見を可視化しました。これまでの授業で長い時間をかけてきた自分とは異なる意見から学ぶことが定着してきていると授業での発言から感じられました。
最後に、新型コロナウイルス感染症患者を積極的に受け入れる病棟に勤務している看護師の方にご協力頂き、中3生徒の質問に答えてもらいました。文学というフィクションを通して学んだことや日頃の思索を活かした質問をコロナ禍にある個人に投げかけることで、普通に生きているだけでは知りえなかった考えと出会うことができたと思います。
上記のような学びをまとめるために各自で問いを立てて文章を書くということをしてもらいました。今後も彼らは答えの明確に出せない問いと格闘しながら考え続けてくれることでしょう。授業担当として大いに期待しています。
生徒の書いた文章を3回に分けてご紹介します。今回は下記2点です。
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未完成な生き物
今、世の中は新型コロナウイルスによって混乱状態に陥っている。「ペスト」の様な状況下で私たちは適切な意思統一をする事はできるのか?
そもそも人間はそれぞれが異なる思考を持っている。しかし、人間はそれと同時に周りの人間の思考に自分自身の思考を合わせようとする面もある。これは人間の思考がグチャグチャな事を意味している。つまり、人間はそう簡単には統一出来ない生き物である。
世間では新型コロナウイルスに対抗する対策を沢山行っている。中には個人個人が心掛けなければいけないものもある。例えば、ソーシャルディスタンスや自粛などである。だが、このような対策には人間の統一性が必要になってくる。先程言った様に人間は統一性の低い生き物なので、感染者の人数に差が生まれるのだ。
「ペスト」においてリウーとランベールは同じ人間であるのにも関わらず、意見が対立している。「ペスト」を読んで、特に人間は混乱状態になると統一性がさらに低くなると思った。では、この様な状況で人間を統一させるにはどうすれば良いのか?
人間の集団には昔も今も必ずリーダーが存在して居る。リーダーの様に命令を出す者が居て、それに従う者が居るという関係は人間の統一性をグンッと上げる。なので、人間を統一させるにはリーダーがその状況に適した判断を、従う者に下す事が大切である。とはいえ、リーダーがどんなに正しい判断をしても、やはり個々の思考を持っている人間にとって完璧な統一は難しい。
人間の周りに合わせる性質を正しい方向に使う為には、その人間の環境を変えなければならない。その人間に対してハッキリと善悪の区別を出来る様にしなければならない。しかし、人間は幼い頃に個々の思考が生まれてしまう。なので、この様な区別を出来るようにするには私たちの子供たちに対して教育しなければならない。僕はまだ14歳なのでこの様な事は僕にとってまだまだ先の事だ。
今私たちに出来る事は人と人の意見の対立を避け、正しい人間の統一を目指す事だろう。一人一人の行動が世界の運命を変えるので、小さな事から大きな事まで気をつけて生活していこう。
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日本にとっての平和な暮らしとは
日本人は、コロナが流行しているこの状況をどのように見ているか。目を閉じて少し考えてみてほしい。私はコロナを少し甘く見ていた。だが、今は違う。今は恐ろしさを痛感し、甘く見ていた過去の自分に後悔だけが残っている。日本人の中には、私と同じ気持ちの人がたくさんいるのではないだろうか。旅行先で感染してしまった人や街中で遊んで感染してしまった人など、ごまんといる。だからこそ、過去の過ちを繰り返さないためにも、コロナが蔓延する社会の中で考えさせられたこと、忘れてはいけないことは何なのか。また、そんな状況から考える、日本にとっての平和な暮らしとは何なのだろうか。その暮らしの実現に向けて私たちができることは何なのだろうか。これが私の問いだ。
コロナが流行し感染者が多く出始め緊急事態宣言が出されたが、中には外出自粛に伴うストレスを発散したいからと、パチンコ店などに足を運んでいる人をニュースで見た。こういう人たちが出てくることは何となく予想はしていだが、もう少し状況を見て行動するべきだと感じた。また、あまりPCR検査ができない時に感染してしまった人に対して、ネットに書き込みをしていた人もいた。 「近くに感染者がいたんだけど、感染してたらあいつのせいだ」 「こんな状況になったのもすべて中国人のせいだ」などが書き込まれていた。どうして状況を見て発言しないのだろうか。どうして、そのような行動をとってしまうのか。なぜ、考えて行動しないのかなど、いろんな疑問が生まれる。コロナで亡くなってしまった人は、私たちが当たり前にできることができない。もう二度とできないのだ。その行動で、傷ついている人がコロナに限らず、沢山いるのに、なぜ社会に悪影響なアクションをしてしまっているのか。まだ動けるのなら、皆が楽しく笑顔になるようなアクションをしよう。過ちの責任を他人に押し付けるような行動に出た人に対して、同じ日本人として様々な気持ちがこみ上げてくる。ストレスの発散方法が日本の状況を悪化させる方向にしてしまっている人がいることが、コロナを通して新たな問題だと考えた。コロナのような新型ウイルスに対して多くの人が混乱し、不安であり、現状を把握しようとしている一方で、我慢できずストレスを発散するために、外出してしまったり、他人を傷つけたりと自己中心的な行動をとってしまう人も中にはいた。次このような状況になったときは、互いの意見を言い合い、聞き合い、今どのような状況になっているのかを全国民が知っている状態にし、自分の行動が今後の状況を悪化させないか未来予測をする必要があったことを決して忘れてはいけない。
このような状況から考える、日本にとっての平和な暮らしとは何なのか。ある一人の看護師の方は、「すべての人が相手の立場になったことを想像して行動し、意見の言い合える世界こそが平和だ」と言っていた。このことを聞いた時、私は「平和」とは何なのか、「平和」な世界は訪れるのかなど、ますます「平和」が難しく感じた。だが、確かに互いのことを考えて行動にうつし、互いに意見を伝え合うということは、私の考える「平和」には必要だと感じた。私がこの状況を通して考える、日本にとっての平和な暮らしとは、一人一人が社会に必要な存在としていて、相手の立場になり行動でき、時には互いに助け合い、時には意見し合う関係が保たれることだと考える。
では、日本にとっての平和な暮らしの実現に向けて私たちができることは何なのだろうか。いろんな人が考えている「平和」とは理想に過ぎず、実現するのが困難である。だからこそ、一歩でも近づけるために大きなことではなく、私たちが行動できる範囲で実現に向けて動かなければならない。そこで私は、家族でも友達でも困ったときは助け、意見の言い合える環境を作っていく。そして、相手の立場になったときのことを考えて行動できるようにコンピューターの中だけでなく、コミュニケーションをとっていくことが、一番の近道だと考える。私たちはまだ生きている。コロナで多くの人が亡くなってしまったということを、全世界の人が心に刻み前に進んでいく必要がある。もう二度と適当な行動で相手が傷つかないように。