「灯火をともすこと」〈林 和広 チャプレン〉

「灯火をともすこと」〈林 和広 チャプレン〉
灯火をともすこと
林 和広  
           
 四月から本学院に来て七ヶ月が経ちます。本学院はキリスト教に基づく全人教育の実践を掲げており、そのためにチャプレンと呼ばれる学校付きの牧師が派遣されています。英国にも日本にもキリスト教系の学校が存在していますが、今日の社会においてはキリスト教だけでなく宗教系の学校とは「自らの文化・思想」というものを生徒に学ばせる、狭量な教育をしているところだと指摘する声があります。信仰は強制されないにしても幅広い視野を持たせる機会を失わせている、と言います。
 日本の若手神学者の一人である宮平望氏(西南学院大学国際文化学部教授)は日本において子供たちの心を疲弊させているものの一つとして日本の受験社会を挙げ ています。最小時間で最大効果を要求し、知識を詰め込むことだけに集中させ、記憶力の良い生徒が優秀だとされる、そのようなものが本来の教育なのだろうか、と問いかけています 。社会においては宗教教育が子供たちの視野を狭め、自由で開放的な学習の機会を奪っているとの見方がある一方で、宮平氏のような見方もあります。実際にはどのようなことが大切なのでしょうか?
 アイルランドの詩人、ウィリアム・バトラー・イエィツの言葉に「教育はバケツに水を汲むことではなく、心を燃やすこと(Education is not the filling of a bucket, but the lighting of a fire)」というものがあります。単に「しなさい!」と命じて勉強させるのではなく、生徒たちが自分で学び、考える心を養わせるということでしょう。「そんなことは承知している」という声が聞こえてきそうですが、バトラーの言葉は学校で学ぶ生徒だけでなく、生徒たちに関わる全ての人々にも当てはまる言葉でもあるように思います。
 慌ただしい競争社会に生きる現代人の最優先事項は、目的達成の為の利益の確保、組織作りです。人間が生きる意味や心の問題について思索する余裕がありません。しかし、人間にとって大切なことは絶えず自分自身の心を見て、自分の生きる意味を見つけ、様々な問いを持って考え、困難や問題に向き合っていくことです。子供は大人の背中を見ます。私自身も両親やその他の大人の背中を見て学んできました。しかし、気がつけば自分も父親になり、加えて若い 世代の人々と関わる仕事に従事している・・・生徒たちから見た自分の背中はどのようなものであるのだろうか?と考えてしまいます。若い世代の心を鼓舞させ、火を灯すような背中を見せているだろうか?と省みることがあります。
 キリスト教の精神は単に教義や道徳を教え込むことではありません。広い視野を持って、学び、考え、成長し続けることができるように「共に」生きることを目指します。日常の中にある食事や交わり、スポーツを通して学んで楽しむと同時に、この世界の様々な文化・慣習・問題に関心を持ち真摯に目を注いで探求することも大事にします。
 本学院での七ヶ月の生活の間、勉強だけでなく、大自然に囲まれた敷地に咲くブルーベル見学、地域の人々と交わるジャパニーズ・イブニング、球技大会、アウティング、ウィンブルドンテニス観戦、オープンデイ、コンサート等、自然や文化、スポーツなど様々なものに生徒たちと共に触れて学ぶ機会を与えられています。生徒たちはこうした色々な事柄に触れると同時に、与えられた課題・試験をクリアしなければなりません。一生懸命勉強をして暗記することも必要です。だけども単なる暗記で終わるのではなく、自分で考え抜いて理解して自分のものにしていけるように教員たちが生徒たちに寄り添う姿も目にしています。
 困難や不安で生徒たちの心の灯火が消えてしまいそうな時もあるでしょう。そのためには生徒たちを支える周りの人々の心にしっかりと灯火が保たれている必要があります。消えかかりそうな灯火に火を分かち合うために。教員と生徒がお互いに学院での生活を通して、学問を通して、この世界とそこに生きる人間について学んでいく、考えていくということを本学院は大切にしているのです。
 もうすぐ、クリスマスが訪れます。喜びと希望の灯火の光が世界を照らします。その灯火の恵みが皆様の上に豊かに注がれるようにお祈りしています。