分かち合うこと
林 和広
昨年の三月から英国での生活を始めて約一年が経とうとしています。月日の流れの早さを感じます。私も家族も全てが新しい体験の連続で、戸惑いもありながらも何とか一年を過ごすことができました。学院での教員や生徒との交わりを通して色々と学んだ一年でもありました。新生活を始めるということは、戸惑いや不安を感じることもありますが、同時にこれまでに気づかなかった新しい発見を与えてくれるものでもあります。英国に来たことによって、自分の見方や考え方が広げられているように思います。
四歳になった長女は昨年から地元のナーサリースクールに通園しています。日本人は彼女だけです。言葉の壁がありながらも楽しんでいます。帰宅するとその日に覚えた一つか二つの単語を繰り返したり、先生が話していたものを何となく真似したりしています。彼女が知っている英単語はわずかですが、その中で最近頻繁に言っているのが [share](分かち合う)という単語です。以前から家にある玩具や絵具、クレヨンなどを独り占めしようとして弟と争うことがあったのですが、ナーサリースクールでもこうした行為が目立つと園長から聞き、これまで以上に「他者と分かち合うこと」を一緒に意識するようにしました。「シェアする!」「シェアしない!」と揉めたりする時もありますが、少しずつ変化が見えてきました。ナーサリースクールの中でもシェアすることを意識できるようになっていると聞きました。こうした娘の姿を近くで眺めつつ、自分自身にとって「分かち合う」ことについて思い巡らすことがありました。
立教学院創設者であるチャニング・ムーア・ウィリアムズ主教は、学問だけでなく、心、人間性を養うことを学院創設の目的としました。将来の自分の利益、専門的な知識を得るためだけに教育があると考えてはいませんでした。様々な学びを通して自分が得たものをこの世界のため、他者のために用いることのできる人間を育て、この世界に送り出すことを願っていました。学院での教育を受ける生徒一人ひとりがこのことを意識しながら学び、社会に出る準備をしていくことを大切にしたのでした。
分かち合うものは玩具やお金という物質的なものだけに限定されません。私たち一人ひとりの存在そのものを分かち合うことができます。どんなに高度な知識と教養を持っている人間がいたとしても、その人の心に謙虚さがなく、他者の声に耳を傾けることができないのであれば全くその人の持つ豊かな賜物は生かされません。その人が謙虚な心を備え、他者の声に耳を傾け、互いの考えや体験を分かち合うときにその人の視野や考えが広がり、その人の内に、そして他者に豊かな実りが生じるのだと思います。
2011年3月11日の東日本大震災以降、私たちは自分たちが生きる世界、人間の命というものに目をじっくりと注ぐように呼びかけられています。震災発生二週間後に私が所属している日本聖公会神戸教区の救援チームが設置され、そのメンバーとして現地に行きました。そこで目にした光景は今でも鮮明に目に焼き付いています。命は助かったものの家族や友人、住む場所を失った人々がいました。津波による原発事故によって自然の恵みに満ちた大地、美しい山と海が破壊されました。今も尚、震災の傷跡は被災地とそこに住む人々に深く残っています。
東北の地だけでなく、世界に目を向けると、世界の様々なところにある災害、争い、問題、そしてそれに伴う痛みや苦しみがあることに気づかされます。自分の目や耳に入る世界の様々な出来事を通して、他者の持つ痛みや悲しみを分かち合うように招かれているように感じます。こうした痛みや悲しみがある世界に生きている私たちにはこれまで以上に他者と社会に対する豊かな感性が必要です。
本学院は世界中から集められた生徒たちの共同体として共に生活しています。多様なバックグラウンドを持った生徒が各自の賜物を分かち合いながら自分の視野、考え方を広げられるように願っています。日々の生活や学びを通して、自分の都合だけを押し付けるのではなく、他者に聴く耳を持つ人間となるように祈っております。