私の嫌いな”私”の話

私の嫌いな”私”の話
 勝負は好きな方だ。テストだって嫌いではない。ベストを出せるコンディションであるならば。本来私は好戦的なタイプだ。絶対に勝てる試合であるならば。だからかるたは嫌いだった。絶対なんて根拠はどこにもないから。
 私達高校2年生は、中学の頃から百人一首に特別力を入れていた。楽しんでいる生徒も多かったし、何よりエネルギッシュでやる気に満ちていたと思う。私だって例外ではなく、一通りの句は覚えていた。しかし、中学2年生で初めてかるた大会に参加した時に、言いようのない不安に襲われた。「皆より早く札を見つけられたら。」
「ちょうど見ていた所にあれば。」
「敵が弱ければ。」
これらは全て、”もしもの話”だったからだ。
 つまるところ、私は勝てる試合しかしない。正確に言えば、出来ないのだ。そしてこれを自覚した時、ふと一学期に習った『山月記』を思い出した。当時は他人事のように漠然と捉えていたが、読み直してみると痛いほど理解できた。臆病な自尊心と尊大な羞恥心。正に私が捨てきれない愚かな私自身だったから。
 かるた大会がいよいよ迫ってきた頃、クラスにスイッチが入ったような気がした。今年が最後だから頑張りたいという思いがひしひしと伝わってきて、自分も頑張らなくては、と思った。けれど同時に、頑張っても無駄だった時のことを考えると、本気になるだけあほらしいと考えてしまった。それでも良い結果でないと満足できないことも知っていた。ああ、なんて面倒臭い性分なんだろう!
 結局私は負けず嫌いの延長線にいたのだろう。最終的には負けたくない一心で、上の句も下の句も反射で答えられるまで覚え、一字決まりも全てチェックした。そしてベストなコンディションに近い状態を作り出し、自分を落ち着けようとしたのだ。我ながら愚かで見事な執念だ。
 ついに大会が始まった。座に着いた時、不安、緊張、抑制された自信がそれはもう見事に入り混じっていた。札を睨み付けながら直前に自分が言った言葉を反芻した。
「期待しないでね。」
嘘つけ、と自分を詰った。期待しないで、なんて言って本当は自分が一番期待しているくせに。期待に応えたいくせに。期待に応えられないことを、他人のものであれ、自分のものであれ、怖がっている臆病者のくせに。
 『山月記』は凄いと思う。私たちはどんな些細なことだったとしても、必ず李徴になる瞬間があるのだ。自覚がないだけできっと。テスト前に緊張することだって、良い結果を自慢したくてたまらない自分が卑しく見える時だって、その小さな隙間に李徴がいるのだ。しかし、かるた大会を通して気づいた。それは仕方のないことなのだと。プライドを持たない人間などいない。いるのはプライドが傷つくのを恐れて何もせず、プライドという名の脆い盾で自己保身をする人だけだ。実際に私が代表例なのだが、ある意味プライドとの戦いが終わった後、私はとてもすっきりしていた。圧迫からの解放と自己満足を手にして、漲るほどの高揚感と達成感を味わうことができた。そして思った。私はプライドに縛られてまでこの感覚が欲しかったのであり、本当の満足はプライドとの戦いによって生まれるものである、と。
 だから私は勝負が好きだ。自分の誇り高く低俗な欲を満たすことができるから。そしてまた、臆病な自尊心も嫌いにはなれないのだ。私を努力させているのは、この自尊心に他ならないから。
(全校かるた大会優勝者 高校2年女子)