雨ニモマケズ〈高野晃一チャプレン〉

雨ニモマケズ〈高野晃一チャプレン〉
雨ニモマケズ
髙 野  晃 一
昨年の卒業終業礼拝は三月十二日、東日本大震災の翌日でした。今年は十日で大震災の一周年の前日です。この一年間、よく用いられた「絆」について話し、礼拝や授業で人の生きる意味を考えてきました。先日も聖書の授業で生徒に原子力発電の今後、廃止か継続かに就いて考え、文を書いてもらいました。これからも難しいけれど避けて通れない問題です。生徒たちは皆かなり真剣に考え書いていました。
この一年、日本でも世界でも繰り返しよく朗読されたものに、大震災との関連から岩手の宮沢賢治さんの「雨ニモマケズ」の詩があります。以前、私はある新聞に「夏休み」という題で依頼され書いた文があります。
「人はときに日常から離れた時間を必要とするようです。普段気づかない全く違った新鮮な視点が開けます。社会人にも学生にも夏休みはその格好の機会であると思えます。私が中学三年生の夏休みの時でした。学校で美術と国語を教えていた田口弘先生に連れられ、同級生二人と岩手の花巻に行きました。終戦後でしたのでリュックサックにお米を詰め、上野駅から夜行列車に乗りました。
翌朝花巻駅に着き、先ず宮沢賢治さんの「雨ニモマケズ」の詩碑に行きました。弟の清六さんの家を訪ねると、まだ戦後なので訪問者も多くなかったのでしょう。座敷に招き入れてくださり、押入れから童話や詩の原稿、「雨ニモマケズ」の手帳を見せていただきました。自分の手に触れた感触と感激は今も忘れていません。
その後、太田村山口の高村光太郎さんの山荘を訪ねました。高村さんは智恵子さんの縫った袖無しのはんてんを着て、パリ時代の思い出を話されました。かみしめるように話す高村さんの低い声が心に染みこむようでした。膝の上に置き、時々動く大きな手が彫刻そのものに見えました。その夜、近くの小学校の教室に泊めていただきました。あたりが暗くなると村の若者たちが集まって「鹿(しし)踊り」が始まりました。素朴で勇壮。村人たちに混じって高村さんの姿も見えました。それから岩手山にも登り帰りました。夜明けの月見草が露を含んできれいでした。
その後、高村さんから田口先生宛てに書が送られてきました。「我もし其(そ)の見ぬところを望まば、忍耐を持て之(これ)を待たん。ロマ書(第八章二五節)」。高村さんが書かれた唯一の聖書の言葉です。旅は私の人生を決する数日となりました。」
 最初この「雨ニモマケズ」の詩の背景には、賢治さんが熱心な日蓮宗の信徒であったことから、法華経の「常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)」があるとされて来ました。一切衆生は皆やがて成仏すると尊び、「我、あえて汝等を軽しめず。汝等は皆やがてまさに仏となるが故に。」と言って、絶え間ない軽蔑や迫害にもめげずに四衆大衆を礼拝して回った菩薩です。
 けれど近年になって、生前親交のあった斉藤宗次郎さんの姿が賢治さんの心の中にあったのではないかと考えられるようになりました。宗次郎さんは明治十年花巻で生まれ花巻小学校の教師になりましたが、無教会の内村鑑三さんの文に触れてキリスト教徒となり、日露戦争直前に強く反戦論もとなえました。そのため二十八才のとき教育界から追放され、花巻で書店と新聞店で生計を立てていました。この二十年の間に花巻農学校の教師だった賢治さんとお互い尊敬し合う親しい交流が続いたようです。
最近発見された宗次郎さんの日記によると、賢治さんは盛岡中学校の学生の時、教会に出入してキリスト教に触れ、宣教師牧師たちとも親しくしていたようです。やがて斉藤宗次郎さんは晩年の内村さんの宣教に協力するため、花巻の人々に惜しまれながら家族で東京に移住しました。賢治さんの心の中には、花巻で「雨ニモマケズ風ニモマケズ」毎日新聞配達をしながら「病気ノ子供、ツカレタ母、死ニソウナ人、ケンカヤソショウガアレバ」、その人々に親身になって尽した宗次郎さんの姿があったのではないかと思われます。
ここは英国なので、今まで授業の中で賢治さんの童話「虔十公園林」「祭りの晩」「セロ弾きのゴーシュ」などを英訳で読みながら、「ベートーベン第六交響曲:田園」も聞きました。授業で読んで訳しながら、私自身胸に深く響きました。私が最初に勤務した教会が福島原子力発電所に近い日立市の教会で、震災後話題になった「常磐ハワイアンセンター」にも子供たちとよく行きました。また阪神淡路大震災の直後、震災復興のため大阪に転任したためでしょうか。これからも賢治さんの童話も読み、人にとって「本当の幸せ」の何かを生徒たちと共に考え学び続けたいと思っています。