今日を生きる
髙 野 晃 一
イエスさまの山上の説教に、今日を生きるという教えがあります。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。(マタイによる福音書6章33―34節)」
若い頃私はこの教えがよく分かりませんでした。むしろ将来の計画を一生懸命たてて、その目標に向かって現在は一生懸命努力することが大切と考えていました。だから、明日のことまで考えるなというようなことが理解できませんでした。
少し分かってきたのは大分後のことです。牧師になって間もなく、
英国のカンタベリーの神学校で一年間学ぶ機会が与えられました。キリスト教というと、日本では今でもやや西洋の宗教をいう感じがぬぐえません。カトリックの井上洋治神父さんと作家の遠藤周作さんは若いころフランスに渡りました。そして「日本人の心情と感性でイエスの教えをとらえなおさないかぎり、決して日本にキリスト教は根を下ろすことはない。(井上洋治)」と考え、日本に於けるキリスト教とは何かを求め続けました。
私も同じような経験があります。英国の神学校で日本は仏教の国だから、当然仏教については知っていると思われ、良く仏教について質問されました。しかし、大学では英米文学科で学んでいたので、普通の英国の人々より英米文学についてはよく知っていました。ところが仏教の教えについては全く知りませんでした。そこで、日本に帰ってから日本人の心の源とも言える「万葉集」と、「聖徳太子」を始め、主として色々な日本の大乗仏教について学びました。
学んだ一つに禅の正受老人の教えがあります。普通の住職のようにお寺に住むのでなく、自然の美しい信州の飯山でお百姓のように畑を耕して生活をしていました。物を作り育てる大切さと喜びを自らの修行にしていました。今も飯山に昔の農家のような素朴な庵が残され、私も訪ねたことがあります。
この正受さんの言葉があります。「今一日暮らす時の勤めをば励み努むべし。如何ほどの苦しみにても一日とおもえば耐えやすし。楽しみもまた一日を一日と思えばふける事もあるまじ。一日一日と思えば退屈はあるまじ。一日一日を勤むれば百年千年も勤めやすし。一大事と申すは今日ただ今の心なり。それを疎かにして翌日あることなし。」私が先のイエスさまの教えを僅かでも実感を持って理解出来るようになったのは、かえってこの仏教の正受さんの言葉に接してからです。
この立教英国学院の一日は「朝の礼拝」から始まります。その中に「天の父永遠にいます全能の神よ、今朝までわたしたちを無事に過ごさせて下さったように、今日一日もみ手のうちにお守り下さい。罪におちいらず、危険にもあわず、たえず主の導きにより、み心にかなう行いができますように、主イエス・キリストによってお願いいたします。」という、お祈りがあります。
今年は新入生が多いのでこの学期の初めに礼拝に就いて話した際、この一日一日を大切に生きることを話しました。私自身は毎朝このお祈りを祈るたびに、今日一日を充実して生きる大切さを自らに言い聞かせるように、このお祈りを祈っています。一日くらいはよいと油断すると、それが習性となって毎日本当は手抜きの生活を送っても、それにさえ気付かないことになります。今日一日を一生懸命充実して生きようと勤めれば、一日のこと自体は小さくとも、それが生涯積み重なると考えれば大きなものに成ると、この年齢になってから分かりました。だから学生たちには今それを何らかの機会にこれを繰り返し伝えています。