ある雨の降る古びた羅生門の下で主人に暇を出されてしまった下人が途方にくれていました。このまま生きるために盗賊になろうかとは思ってみてもなかなか踏み切れない、そんなときに、生きる糧を得るために悪事とわかって死人の髪の毛を抜く老婆に出会います。老婆は自分が生き抜くためであり、この死人も生前は生きるために悪事を働いたのだから許されるだろうと口にします。下人はその老婆に対し正義感を燃やしてしまいましたが、しまいにはその言葉に納得し、老婆の着物をはぎとってしまいます。そして「私もそうしなければ飢え死してしまう体なのだ。」と言い残して消え去るという選択をしました。
飢え死をするのか、盗人となるのか決心がつかなかった下人。多分、自分もその場にいたら、そう簡単に決心はつかなかったと思います。でも自分には罪悪をしたくないから飢え死を選ぶなんて勇気は持ち合わせていないと思います。だとしたら、私も下人と一緒の行動に出るかも知れません。下人がしたことは正義的なことではないと思います。しかし自分がその場にいたとしても飢え死することを選ばずに追い剥ぎになることが悪と言えないと思います。それは、生きたいという人間の生命への執着がそこにあるからです。
「羅生門」は「生きる」ということの人間の本能を描いている物語だと思います。このまま飢え死してしまうのか、それとも悪事だとわかっていても盗人となってしまうのか。芥川龍之介が描いたのは、人間はどうあるべきかなどという理想ではなくて、命の現実だと思いました。幸いにも私達は、この命の現実を目の前に突きつけられているような極限的な状況のない日常を生きています。しかし何かのきっかけで、このような「善」「悪」の分岐点に立たされることもあるはずです。
私は「羅生門」を読んで、人間とはつねに「善」と「悪」が重なった存在であると感じました。また同時に「善」と「悪」は状況により、揺れ動き、ひっくり返る、表裏一体なものであるのだと気付かされました。そして「正義」とは、「善」とは何であるか、その基準は思う以上に複雑で私にとっては難しい問題となりました。しかし、これから生きていく経験の中でその基準を、自分が納得できるようにしっかり考えていこうと思います。
(中学部2年 女子)