日記。それは毎日の出来事や感想などを記録する物。僕は前に何度か日記に挑戦したことがあります。例えば、小学校一年生の時の夏休みの宿題が絵日記でした。絵を描くのも文章を書くのも決して得意では無かった僕はどうやって書き始めるのかも分からなくて、そして自分のことを書いてそれを先生に読まれるというだけで恥ずかしくて書く気になりません。その後も用事を忘れないようにと手帳を何度か持ってみましたが、どうも定期的に書き込むのが苦手な様ですぐに止めてしまいました。そして、後に残った大量の真っ白なページ達は僕の飽きっぽい性格だけを示していました。日記が途切れる事は僕の人生にとってなんの意味も持ちません。
しかし、日記が途切れる事が特別な意味を持つ少女がいました。アンネ・フランク。彼女は世界中の人々に読まれている日記の著者です。
平凡な毎日を送れているという事はとても幸せな事。それは何度か親にも言われた事であり、テレビ番組などで貧しい国で生きていくのもやっとな人々が映し出されるのを見て感じた事でした。ですが、アンネの日記を読んでその事をもう一度思い知らされました。
アンネの日記は、アンネ・フランクというナチスドイツ占領下のオランダで暮らしていたユダヤ人の十三歳の少女がつけた日記です。隠れ家に住んでナチスの迫害から逃れながら辛い現実を精一杯生きた二年間が綴られています。
僕は読書は好きな方で読んだ本数も多い方だと思いますが、人の日記を読むなんて事は初めてでした。初めてのジャンルに期待しつつも、どうせ一人称視点と同じ様なものだろうと軽い気持ちで本を開いてみました。ですが、それは思っていたそれとは大きく異なりました。ストーリーなんて無い。文章の流れもむちゃくちゃ。時々入ってくるアンネの自慢話。確かに一人の女子中学生の日記といったらごもっともなのだけれど、こんなもの読めたもんじゃない、と呆れてしまいました。本の最後の最後まで続く自己中心的かつ自意識過剰な語り口調に若干の怒りを覚え、そして何の感動もなく日記が終わる。582ページもある長い本を読みきって残ったものは何もありませんでした。
読み終わってしばらくの間、この本は何を訴えかけていたのか、何がそんなにも多くの人々に感動を与えたのかを考えてみました。感受性の問題なのか、或いは重要な点に気がついていないのか。答えは後者でした。僕は最も大事な事を見落としていたのです。それは最後のページの後、何が彼女の身に起こったのか、でした。最後のページの後に起こった事、それはすなわち日記を書くのを止めた、もしくは止めさせられた原因。それを考えた瞬間、自分の中で何か熱いものがこみ上げてきて、同時にこの日記に込められた一文字一文字の重さが、僕の心にのしかかったのです。
実際、自分がその場に立たされた時、変わらず自分の思う事や起こった出来事を記録するような余裕があるだろうか。恐らく自分がそんな状況に置かれた場合、毎日毎日身を潜め、震えながら生活していたでしょう。日記なんて書く余裕は絶対に無いと断言出来ます。ですが、アンネはしていました。いつ捕まるかも分からない、そんな恐怖を常に感じながらも最後まで変わる事の無い長文を自宅に送り続けました。アンネ・フランクにとって日記が途切れる事はゲシュタポに逮捕され、強制収容所送りになる事を指します。収容所というのは入ってしまったら、一切の自由を奪われる、いわば死も同然の生活が待っている場所です。きっとそこには平凡な暮らしをしている僕にはとうてい理解できない恐怖があったでしょう。
僕の日記の空白は飽きっぽい子どもが平凡だけど幸せな日々を送っている証です。ですが、アンネの日記の空白は収容所に送られ、以後書く事ができないという悲壮感の塊。同じ空白でもその持つ意味は全く異なります。白いページは飽きっぽさの象徴、アンネの日記は僕にそんな平和な時代に生きている事に感謝させてくれました。
(中学部3年 男子)