チャプレン挨拶

チャプレン 眞野 玄範

チャプレン

Mano michinori

眞野 玄範

<初めに神は天と地を創造された。地は混沌として、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。>(創世記1:1-2)

立教では、毎朝、礼拝があって、聖書を読みます。聖書は、読み方によって、つまらなくもなり、おもしろくもなります。

例えば、聖書の創造物語を自然科学的な意味で受け止めて読む人がいます。それで、天文学が発達しているのにどうしてこんなものを読むのか、と考える人もいれば、逆に、聖書に書かれているのだからこれこそが真実で、科学者の言っていることは間違いだ、と主張する人もいます。どちらの主張も間違いです。聖書が問題にしているのはそういうことではないからです。そのような読み方では聖書は意味がないもの、つまらないものになってしまいます。

もし天地創造の物語がそういう話だったら、<今・ここ>に生きている私たちにはどうでもよい話です。そもそも聖書は、宇宙が自然科学的な意味でどのように始まったか、ということには関心がありません。たしかに古代の宗教はみな、世界がどのように始まったのか、という関心を持っていました。しかし、それは、人間とは何者なのかという問い、そして、その問いと関わっての、この世界はどういう世界なのか、という問いでした。

その問いにおける最大の関心事は<いのち>です。<いのち>の幸せ、不幸せです。

一方には、いのちに満ち満ちて、美しくて、光に溢れた、彩り豊かな世界があり、その中でいのちが生き生きとして、充実感があって、幸せな状態があります。いのちには価値がある、この世界には価値がある、自分がこの世界に存在することには意味がある、と思える状態があります。

他方には、いのちの気配がなく、荒れ果て、混沌として、闇に覆われた、灰色の世界があり、その中で自分のいのちが圧迫され、囚われ、絶望感しかない、不幸せな状態があります。いのちには価値がない、こんな世界には価値がない、自分がこの世界に存在することには意味がない、としか思えない状態があります。

この幸せ、不幸せは、その人次第です。他の人から見れば何一つ不自由がなく、恵まれた生活をしていても、不幸せな人もいます。他の人から見れば絶望しかないような生活をしていても、幸せな人もいます。

聖書の言葉は、世界が醜悪なものにしか見えないような状況で、他の人から見れば絶望しかないような人生を生きていながら、いのちの希望をもって、この世界に美しさを見いだして生きた人たちが語り伝えてきた言葉です。聖書の言葉をいのちに関わる真実として伝えた人はこの言葉をどう聴いたのだろうと思って読むと、聖書はおもしろくなると思います。

「地は混沌として、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」。例えば、この言葉を、代々の証し人たちは、そうだ、何もかも混沌として、どこにも光が見いだせない、暴力が吹き荒れているこのわたしたちの生きる世界を、神は抱きしめてくださっているのだ、と聴いてきたのです。「動いていた」と訳されている語は、申命記では神が母鷲にたとえられ、その母鷲が巣の雛を羽で抱く、あるいは雛の上で羽ばたく様子を表す動詞として使われている語です(32:11)。

共にこの霊なる糧にあずかりながら、歩んでまいりたいと思います。


チャプレンについて

チャプレンは立教英国学院の学校付き牧師です。礼拝や聖書の授業ではさまざまなお話をしてくださいます。
チャプレンあるいはチャップレン(英: chaplain)は、教会・寺院に属さずに施設や組織で働く聖職者(牧師、神父、司祭、僧侶など)。 語源的には、それらの施設に設置されたチャペル(英: chapel)で働く聖職者を意味するが、実際には必ずしもチャペルが存在するとは限らない。

チャプレン – Wikipedia