学期末毎に児童・生徒の皆さんには、聖書の授業や日々の礼拝の説教、また英国に住むことを通して感じたこと、考えたことを作文として書いてもらっています。
今学期、やはり多かったのはテロというテーマでした。
英国内また世界における貧困と格差の問題、宗教的な問題、民族的な問題など、様々なレイヤーが複雑に絡まり合っている現代は、単純に一つの理由で解きほぐすことは困難です。
授業でも度々伝えるのですが、何かの出来事に対して私達はついわかりやすい理由を求めてしまいます。人間は何かに対して納得し、安心したいという欲望を持っているからです。そのような物の見方はしばしば現実というものから私達を遠ざけるものでもあります。
また、何か一つの原因のみを確立してしまうと、そこに対立軸ができてしまいます。たとえばそれは、宗教であったり、貧困であったり、文化であったりするわけです。宗教間の対立や、貧富の社会層の対立、文化の対立は生み出すべきではありません。
大切なのは、普段の人間関係でもそうであるように、何か一つの原因に単純化するのではなく、他者を他者として尊重し、総合的に生身の人間として関わりを持ち続けるという態度そのものでしょう。
それは時に困難を伴いますが、今、多くの英国民がその態度を保とうとしています。王室や国教会の聖職者たちがモスクへ足を伸ばし、共に祈る姿を見せているのが象徴的です。それは隣人を愛するあり方だからです。
そのような英国に児童・生徒達は住んでいますから、他者を他者として捉える、ということへの感度は自然と深まります。
今学期末の作文では、「死者や遺族を思い祈る時間が増えた」「このようなテロが起きたからといって、英国内のイスラム教徒を差別するのは良くない。偏見の目が広まらなければよいのだが」といった他者を思いやる気持ちや、未来への危惧が綴られていました。
これはとても心強いものです。
この心強さの裏には、自分たちが英国において外国人として生きている、という自覚が作用しているのでしょう。異なる文化的出自を持つ自分たちが、その文化を尊重された上で、大切な隣人として受け入れられている、これは大きな事です。
聖書の中で、有名な善きサマリア人のたとえ、というイエス様がされたたとえ話があります。(ルカによる福音書10章25-37節)
旅の途中、とあるユダヤの人が強盗に遭い、身ぐるみを剥がされ行き倒れてしまいます。通りかかった同じユダヤの人々は、自分も厄介ごとに巻き込まれたくないため、見て見ぬふりをして通り過ぎます。
しかし、当時対立していたはずのサマリア人の男が、その彼を手厚く看病し近くのユダヤの町の宿屋へ連れて行きます。これは大変な勇気のいることでした。何故なら、サマリア人はユダヤ人と敵対していたため、ユダヤの町へ行くということは殺される危険があったからです。
このたとえの最後にイエス様は尋ねます。「誰が追いはぎに襲われた人の隣人となったと思うか」。律法の専門家は答えます。「その人を助けた人です」。そこで、イエスはこう言われます。「行って、あなたも同じようにしなさい」。
自分が隣人として大切にされていることを知ること、自分もまた出会った人の隣人となっていくということ、愛するということ。
この精神がこれからも児童・生徒達の内にますます育まれていくことを心から祈り願っています。