葉桜の復活日
この原稿が皆さんに届く頃には、日本でも桜が咲き始めているかと思います。
立教英国学院の敷地内にも桜がありますが、これは遠く日本を離れた子弟のために植樹されたものです。卒業式に咲くことは適いませんが、入学式には満開のことでしょう。
今年のイースター(十字架にて死なれたイエス様が三日目に復活されたことを記念する日)は例年と比べてだいぶ遅く、4/21となっております。復活の喜びと共に満開の桜を楽しむのも良いものですが、葉桜の瑞々しい新緑と共に命を与えられた意味について思いを馳せるのも良いものかもしれません。
太宰治の作品の一つに『葉桜と魔笛』(1939)という短編があります。太宰がキリスト教の影響を受けたことは有名なことです。
それは「桜が散って、このように葉桜のころになれば、私は、きっと思い出します。――と、その老夫人は物語る。」という一文から始まります。
この作品には、後に老婦人となる姉と、病弱な妹とがでてきます。ある日姉が妹の箪笥を整理したところ、ある男性からの手紙を発見します。ところがその手紙の最後の一通には、妹の病気を知るや否や、もう互いを忘れようと書かれていました。
姉は衝撃を受け、しかし妹が可哀想ですので、筆跡を真似て励ましの手紙を妹に渡します。「僕たち、さびしく無力なのだから、他になんにもできないのだから、せめて言葉だけでも、誠実こめてお贈りするのが、まことの、謙譲の美しい生きかたである、と僕はいまでは信じています。」「あしたの晩の六時には、さっそく口笛、軍艦マアチ吹いてあげます。僕の口笛は、うまいですよ。いまのところ、それだけが、僕の力で、わけなくできる奉仕です。」という一文を認めて。
ですが、妹は全てを知っていました。それどころか今までの男性からの手紙は、自分で書いたものだと打ち明け、男性との出会いもなしに死んでいく恐怖におののくのです。姉と妹は抱き合い涙を流します。すると、低く幽かに、口笛が聞こえるのです。それはちょうど、六時のことでした。
「三日後」妹は死にます。余りにも早い死に医者は首をかしげるのですが、姉は「神さまは、在る。きっと、いる。私は、それを信じました。」と独白するのです。そして年老いた姉は、ひょっとしたらあの口笛は父のものかもしれない。だがやはり神さまのお恵みではないか。「私は、そう信じて安心しておりたいのでございますけれども、どうも、年とって来ると、物慾が起り、信仰も薄らいでまいって、いけないと存じます。」という言葉で、この短い作品は幕を閉じます。
太宰は、このように神の不在を描くのです。と同時に、一人一人の祈りを描くのです。妹の告白。姉の手紙。父の口笛。
聖書は、十字架の道行きの主イエスの姿において、徹底的に父なる神の不在を描きます。イエス様の孤独を描きます。父なる神の不在という孤独。また、弟子達や人々の無理解という孤独を。主イエスが受けられる孤独は、人間の最大の絶望です。
人間は常に絶望に怯え生きています。私達はこの絶望を思い浮かべるとき、目眩を覚えるかもしれません。高いところに立つと、転落する不安に駆られるように。朝になれば光が差すというのに、夜の闇を怖がるように。
この深淵、まことの闇の中、祈り続ける主イエス・キリストの御姿があります。主イエスは、ご自分の両隣に架けられた罪人のため、また自分を十字架に架けた人々のため、祈られました。投げ捨てられた人々のために、夕暮れを恐れる人々のために。
愛は深ければ深いほど、誰かの苦しみを引き受けるものです。ですから主イエスの十字架での苦しみは、全ての人の苦しみなのです。聖ボナヴェントゥラが言うように、自分の運命と他人の運命の、区別がなくなればなくなるほど、愛は大きくなるのです。
そうしますと、私達はこの十字架に、神の愛の輝きを見い出します。御子の十字架において、御父が苦しまないことがありましょうか。十字架には父なる神の愛が秘められています。その愛によって、私達を愛される主イエス・キリストの御姿があります。そして主イエスの愛の血の流れは、私達の心へ注がれることによって、無数の花を咲かすのです。
桜花は過ぎ、葉桜が目を楽しませます。何故なら、新緑は落ち葉となり裸の枝となろうとも、変わらぬ雨と太陽と、夜と朝との繰り返しにより、新たな蕾の芽生えを知っているからです。祈りと共に、十字架と復活の日を待ち望みたいものです。