名作の数々が澄まして鎮座する天下の美術館で、きょろきょろするのは山出しの子みたいで田舎臭くて恥ずかしい、なんて思いながらも自制できなかった。これが、Outingで行ったNational Galleryについての率直な感想だ。
一月に現代文の授業で『失われた両腕』という論説を読んだ。「ミロのヴィーナス」が世界的に「美」として認められ、もてはやされるのは、その両腕がないためだ、というのが筆者の持論であった。美とは作り上げた直後の状態ではなく、作者の意図せぬ破損や劣化を含めて美というのだそうだ。確かに、National Galleryに限らずどの美術館にある絵も、全てが全て、発表時に良い評価を受けたものではない。それこそ、作者の死後何十年も経ってからようやく評価され始めた作品もある。美術館はそんな、いわば「ミロのヴィーナスの集合体」であり、人々が「世界の美」だと言った作品が、所狭しと並んでいるのだ。
そんなだから、部屋から部屋に移動する時でさえ、目が絵画を探す。二時間で見切れる代物ではないので、課題で要チェックと言われている作品を最優先に見るつもりが、道々で気になる絵を目ざとく見つけた私の両眼は、そこで止まることを要求した。日本では決してお目に掛かることのない隠れた名画を、少しでも焼き付けておきたかったからだ。時間が少ないことからくる焦りも手伝って、私は少し混乱していた。絵を見て感動しても、その余韻をかみしめる間もなく、隣の絵に対する感嘆が押し寄せてくる。優劣つけがたく、感動が上書き保存されていくような気分だ。言いようによっては、これは目移りだろうか。
しかし私は、断じて目移りではないと言いたい。私の性癖ではない。私の頭のせいではない。冷めにくくとも熱しやすいタイプではないのだから、こんな作品たちを住まわせているNational Galleryがいけないのだ。そう思いたい。初対面の名画たちに少ない時間で挨拶していくのは当然大変だし、優劣はつけがたいし、きょろきょろして当然だ。私は悪くない。
けれど、やはり次に行く機会があれば、少しは場慣れして、「目移り」もしないだろう。そんなことを少し考えて、ふと気付いた。そうか、National Galleryは私をリピーターにする気なのだ。今度訪れる時は、もっとゆったり、じっくり、田舎っぽさも消えて、名画と対話できるだろう。焦った眼も落ち着いて彼らを見据えてくれるに違いない。
(高等部1年生 女子)