時間

時間 時間 時間
 「僕らには時間がない。」OPENDAYの準備にかけた数ヶ月間のわたしを動かしていたのは、この一言だといっても過言ではない。時は金なり。光陰矢の如し。古今東西、流れていってしまう ”時”の大切さを訴える言葉は数多く存在した。何事を為すにも時間の限りはつきぬもので、今までに何度も”時”との修羅場をくぐり抜けてきたはずなのに、だがしかしこれらの言葉の重みを身にしみて感じたのは、今年のOPENDAYだった。
 「僕らには時間がない。」この言葉に出会ったのは、五月頃、halftermの直前だ。演劇部の仲間に、OPENDAYでの公演で是非使ってみたい話があるから今すぐ読め、と半ば強引に手渡された台本の帯にあった一言だった。以来わたしは、この言葉に追いかけられるようにして過ごしてきた気がする。週に二回も八限目まで授業がある高校二年生。勉強のレベルも格段に上がり、とにかく自習時間が欲しいと思う中、どうやってスムーズに話し合いや作業を進めていけるのだろうか。学級委員としての自分の役割は何だろう。考えているうちにも時計の針は進む。気がつけば、ゆっくりOPENDAY準備に費やせる夏休みは終わり、二学期が怒涛の如く過ぎ去ろうとしていた。
 「僕らには時間がない。」それは、OPENDAY準備期間の最終日まで続いた。時が経つにつれて増えてゆくのは焦りと教室のゴミ、減ってゆくのは心の余裕とペンキの量だ。何故一日は二十四時間しかないのだろう。そんな、試験前の学生のようなことを、ふと考えていた。そうやって出来上がった物の数々にどこか実感が湧かなかったのは、当然のことだった。自分との、周りとの戦いであるOPENDAYに際して、わたしの心の中で常に黒い光を放っていたのは、”時間”であったからだ。今年のスローガンはFeel this moment、けれど貴重な一瞬の大切さを味わうことなく、わたしのOPENDAYは終わってしまった。
 「僕らには時間がない。」この言葉がどれだけ深く自分の中に巣くっていたか、OPENDAYが終わってようやく気がついた。塗り足りなかったところ、作り足りなかったところ、後悔は作りあげた作品だけでなく、一つのクラスとして団結することにも及んだ。もっとこうすれば良かった。あの時ああしていれば。溢れんばかりの思いの中に、その全ての責任を”時間”に押し付けようとする自分がいた。懐中時計を片手に駆けてゆく白ウサギを追って迷子になった少女は、自分の災難をウサギの所為にした。要するに、そういうことだった。
 「僕らには時間がない。」それは、建前だったのだ。悔しさが残ったのは、時間の所為ではない。迷子になったのは、自分の好奇心の為せる業ではなかったか?結局、わたしは怖かったのだ。今まで頑張ってやってきたと思っていた準備に、穴がたくさん空いていたのを知ることが。現実は残酷だ。”時間”に関することを抜いて考えれば、自分の至らなかったところが見えてくる。集約してしまえば、それらは「学級委員としてクラスをまとめられなかったこと」。この一つに尽きた。けれど、それを回顧して、自分の影をいつまでも見ていては、前には進めない。”時間”に責任転嫁するのはもうやめた。自分の、情けない現状を自身の前に曝した。そうしてちゃんと反省したのならば、次はそれを消化して進まなければ、成長できない。悔しい気持があるなら、不甲斐ない自分がいるなら、次の機会こそ、そうならないように精一杯努力すれば良い。そう気づかされた。
 だから今。
 「僕らには時間がある。」
 まだ残っている青春の一齣を、最大限の力を出し切って走り抜けなければ、損だ。
(高等部2年生 女子)